枯林忌の沿革
成蹊大学名誉教授
朝倉孝吉(旧高・17年)
年々卒業生の参加もふえ、枯林忌が盛大に行われていることは本当にうれしいことです。
私事で恐縮ですが、大正十五年二月二十一日の亡兄(旧高卒業)の日誌に「学校で式をおえ、食後に寮生一同中村先生のお墓参りにいった」という記事があります。
これは学園講堂で中村先生の三回忌の追悼式があり、その後お墓参りにいったということとと存じます。
学園としては、大正十五年の中村先生の三回忌以降、毎年二月二十一日の御命日には学園講堂で追悼式を行い、昭和十二年までは式後に当時一流の名士の講演会が開かれておりました。
昭和二年第一回は、心力歌をつくられた小林一郎先生、以降、高島米峰、穂積重遠、石黒忠篤、井上範、永井松三、推尾弁匡、長井真琴、宇野円空、塩谷温、森田実の各先生が講演をされました。
昭和十二年九月から浅野校長から土田校長に代わり、昭和十三年からは枯林忌が行われた二月二十一日には、学園物故者の追悼式が行われ、昭和十三年から同十六年まで枯林忌の日に学園追悼式が続けられたと「回顧録、旧制成蹊高校」の年表にありますが、その追悼式も昭和十七年には三月十九日に行われ、以降は行われなくなりました。
事実、土田校長になりいろいろ新しい行事が行われるようになっています。昭和十三年九月には乃木祭に小笠原長生氏の講演、昭和十五年から記念祭が勧学祭となり、五~六月ごろ井上哲次郎、仁科芳男、本多光太郎各氏の講演が同十七年まで行われました。
「旧制高校回顧録」によれば、「土田校長は従来の凝念や心力歌を廃止し、精神のよりどころを報命神社に定め・・・」とありますように、昭和十五年秋から朝の凝念の時心力歌はなくなり、その代りに「のりと」が読まれたと記憶しています。
土田先生は、昭和二十年秋になくなり、昭和二十四年の二月二十一日に中村先生の追悼式が成蹊会主催で学園講堂で行われ、さらに昭和二十五年の枯林忌に「中村先生を偲ぶ会」が学園主催で行われたと「回顧録」に記されております。これが学園として行われた枯林忌の最後と思います。
私は昭和十七年に旧制高校を卒業し、戦後昭和四十二年大学教授として成蹊に戻って参りました。勿論、当時は枯林忌としての追悼式はありませんでしたが、枯林忌の日には紅白のまんじゅうが配られたと思います。
昭和四十六年、私が経済学部長になり、常務理事であった丹羽孝三先生とお話をした折、枯林忌のこととなり、自分らは枯林忌には墓参をしているとおききし、では翌年から私も参加させて下さいということで、翌年私は仕事の関係で丹羽先生等よりおくれてお参りをし、墓参のあと、現在の養和会の建物はなく、古い木造の日本家屋の一室で皆さんからいろいろお話をうかがいました。
そこにおられたのは、丹羽先生と岩下順太郎さんは確かに記憶していますが、あと数名の年輩の方のお名前は存じ上げませんでした。その後二月二十一日前後が大学の入試でなかなか参加できず、しかも丹羽先生は昭和五十年暮に亡くなられ、私が専務理事としてあとをつぐこととなりました。
昭和五十三年四月から小笠原光雄先生に代り、古賀繁一先生が理事長に就任され、古賀さんが枯林忌のことを心にとめられ、いろいろお話をしておりました。昭和五十七年、私は大学長でしたが、大学の入試をさけ、私共も出席できるようにと枯林忌を二月十四日に早め、古賀理事長、新井専務理事、私なども出席し、中村家からもご出席があり、参加人員も増え、立派に枯林忌が執り行われました。
そして、翌五十八年から枯林忌は理事長出席のもと、学園と池袋同窓会の共催となり、翌五十九年から学園と成蹊会の共催となり今日に及んでいます。
このような盛況をごらんになって中村春二先生はどんなにかお喜びかと存じます。私は中村浩先生がなくなる何日か前、伊東の病院にお見舞に参りましたが、もうお話ができる状態ではありませんでした。お子様方もそれぞれ立派になられておられます。浩先生のお孫さんは私のゼミにおられましたが、卒業後、アメリカに留学され、ボストン大学で学位をとられ、帰国後外国人の会社でたくましく成長されています。
このように、中村家の皆さんが立派であることは中村春二先生も天上でお喜びのことと存じます。
「宇は大なり」で私達成蹊の宇のものは、これからも枯林忌でいつまでも中村先生をお偲びして参りたいと念じています。
成蹊会誌 No.96より